Qiita や X に個人開発アプリを投稿した。まったく反応がない。X では謎のDMが来た。その会社を調べたらとても評判が悪かったので無視することにした。
先ほど不具合が見つかったので修正した。Next.js の環境変数が設定ミスにより読み込めていなかった。
仕事ではWAFのリクエストボディのブロックルールを初めて知った。
SizeRestrictions_BODY だ。AWSManagedRulesCommonRuleSet の中にあった。
以前 Laravel で個人ブログを作ったが、AWS の料金が高い & メンテが面倒という理由でやめた。今回は Next.js で作った。比べ物にならないほど楽である。
料金は $40 と相変わらず高いが。そのうちサーバーレスに移行しようと考えている。
今日も家族で散歩。また毒親を発見してしまった。自分の子どもに「キレさせないで」と言う母親。自分がキレたのを子どものせいにする。子どもはなすすべもなく呆然と立ち尽くしていた。とてもかわいそうだった。キレる人はその原因を相手のせいにする。そういえば以前の職場で私に怒鳴った上司もそうだった。私がその上司に対して間髪入れずに話し続けたから、自分の主張を聞いてもらえず仕方なく怒鳴ったと。
あの母親もあの上司も論理が破綻している。ストレスを感じたのは自分の思い通りに周りが動かなかったからであり、そのストレスに自分が対処するにはキレる・怒鳴るのが最も簡単であり(つまり楽をしてストレスから逃れたい)、さらに相手を自分の思い通りに動かすという目的を実現するためには相手を委縮させるのが最も効果的だと判断したからだろう。キレる・怒鳴ることで自分が不利益を被るような場面では、失うものが大きいのでこういう人たちはそのような行動に出ない。だから相手のせいでキレた・怒鳴ったというのは誤りであり、本人たちの選択である。相手を尊重するよりも自分が一刻も早くストレスから逃れたく、そのためには相手を傷つけてもよく、利己的であり、被害者意識を持って自分の行動を正当化する。自分はこんなに苦労している、誰か察して、こんな自分に優しくして、怒るのはあなたのせい、など。周囲が勘違いしやすいのは「誰々が~~だから」という主張は、「誰々が私の思い通りに動いてくれないから」という本心を被害者意識で言い換えたものである。そしてキレる・怒鳴る相手には自分がよくやっていると勘違いしており、恩着せがましい。
散歩の帰り道、小学 3 年生くらいの兄が 5 歳くらいのベビーカーに乗った弟に「恥ずかしい。周りが見ている。笑われている」などと言っていた。自分も愛が欲しくて嫉妬したのだろう。これくらいの子どもでもこんな風に責めるのだなと思った。明らかに今の社会・教育はおかしいと思った。恥ずかしいことではないし、周りに見られて笑われてもどうでもいいことだ。というか見ても何とも思わない。自分で歩くのは疲れるし、どんな年齢になっても愛されたいし甘えたい。自分の感情を抑圧して社会的な評価(とされているもの)に照らして間接的に自分の欲求を満たそうとする子どもがいることに、今の社会・教育の異常さを感じた。
私は両親に怒りを感じている。なぜあの時受け入れてくれなかったのか。怒りはここから来ている。
「赤ちゃんみたい」
あの時母にはそう言われた。私が21歳の時だ。当時私は大学に通えなくなって実家に帰っていた。私は退行欲求から幼児のような行動をした。母にこのように言われ、10年たった今でも怒りを感じている。10年たっても受け入れてもらえなかったという怒りが変わらずに残っている。
父は母に操作されていた。母は父に怒り、父は母の機嫌を損ねたくないから、母が満足するようなやり方で私に接していた。父も弱い人間だ。その場の雰囲気に流されて自分の態度を決める。周囲が怒っていればそれに加担して怒り、楽しんでいるときは同じように楽しむ。だから父には付き合いの長い友達がいる。
母には長い付き合いの友達はいない。激しい敵意を持ってここまで生きてきたからだ。どんなに優しい人間でも母と一緒にいたいとは思わないだろう。母は外面はいいが、それは偽装された姿だ。本心は満たされない心を相手に満たしてほしいのだ。そして満たされないと急に態度を変える。依存心と不安から敵意が生まれている。不安だから支配しようとする。愛されなくなる不安である。自分は愛されない、相手は自分を受け入れないという孤立に対する不安である。だから人間関係が続かない。続いているのは宗教で繋がっている人間だけだ。損得が動機になる人間にしか母は相手にされないのだ。
なぜ孤立してきた母が今まで心が折れることなく生きてこれたのか。それは母の不安に対する防衛が従順ではなく攻撃だからである。父はその攻撃性と自らの周囲に迎合する性格のために母に支配されてきた。父も母も悲惨である。でも必死に私を育てた。私は4人兄弟の3番目だ。
父も母も愛し方がわからなかったのだ。
彼らは自分の中にある愛するということ、その倫理観を必死に実行してきたのだ。しかし、愛とは受容である。褒めることでも、励ますことでも、慰めることでもない。そのままを受け入れるということである。
あれから10年たって私は31歳になった。私は父も母も愛している。父も母も愛し方をわからないなりに、私が絶望している姿をそばで目の当たりにしながら、ずっと私の成長を見守って愛してきたのだ。
私が怒りを感じているということは、両親から自立できていないということである。特に母に、支配的な母にいまだに支配されているのである。幼いころ私が支配に抗えなかったのは私が無力だったからだ。思春期から今まで支配に抗えなかったのは私が自立しようとしなかったからだ。自立しようとしなかったのは私が成長しようとしなかったからだ。なぜ苦しみを抱えてもなお、成長しようとしなかったのか。苦しんでいるほうが楽だからである。今の自分の人生の悲惨さを誰かのせいにできるからである。嘆いていれば自分が辛く苦しい思いをしているという被害者面ができるからである。苦しみの仮面の下で甘えていられるからである。
私は父も母も愛している。同時に怒りも感じている。彼らに愛してほしいという気持ちも感じている。支配に従わなければ愛されないという不安もいまだに感じている。ここまでは今までの自分である。
これからどうするか。両親への愛は変わらない。私は自分の心の葛藤に直面する。なかったことにはしない。目を背ける、押し殺す、なかったことにする、という先に成長はない。いつまでも正体のわからない苦しみに苛まれることになる。不安を感じる本当の部分をいつまでたっても解消することはできない。
私は成長して自立する。自分の人生を生きるために。自分の人生を生きるとは自分にとっての喜びがわかること、自分に必要のないものがわかることである。
高瀬隼子の『水たまりで息をする』を読んだ。最高だった。夫が壊れたらどうするか。
ショーペンハウアーの『自殺について』を読んでいる。素晴らしい。ショーペンハウアーは偉大だ。『読書について』も素晴らしかった。
いかに、ひとりひとりの生活が、惨憺たる艱難辛苦に直面しているかを、よくよく考えてみるならば、だれしも、戦慄を覚えずにはいられぬであろう。それこそ、むしろ死んだ方がましだ、いっそ思いきって自殺しようかという考えさえ、やすやすとつのりかけてくるかも知れない。もとはといえば、死から逃れようとするので、生が成り立っているのではあるけれども。ところが、このような逃げ場すら、とかく、せきとめられがちなので、わたしたちは救われるあてもなく、いつまでも悲惨きわまる苦境に沈淪しているのだ。
ショーペンハウエル『自殺について』 KADOKAWA 2023/7/15 Kindle版 ASIN:B00DVZRP1S
なんという慧眼無双。真理を目の当たりにしている。霧が晴れた。おぼろげだったものがはっきり姿を現した。
多種多様な人が書く「人生」や「生き方」に関する本やブログが、いかに嘘だらけの愚劣で稚拙で拙劣で妄言ばかりの戯言であるか。
「ただ生きるのではなく、善く生きる」というソクラテスがいかに間抜けであるか。しっかりソクラテスを読んだわけではないので切り抜きに踊らされているのかもしれないが、学校でも習う有名なこの一節は滑稽で仕方ない。
人間の一生は、それぞれ、全体として見ると、悲劇の性質を帯びているもので、生涯は、通例、ひとつづきの・的をはずれた希望・空におわる計画・時機を失してから気づかれる迷誤にほかならぬことを、わたしたちは、知るのである。
ショーペンハウエル『自殺について』 KADOKAWA 2023/7/15 Kindle版 ASIN:B00DVZRP1S
これについては生きてみないとわからない。しかし現時点においてこれまでの31年は上記の通りである。
本当にこの世は救いがない。必要なのは自殺予防とかいのちの電話ではなく、安楽死だろう。生きるのは苦しいに決まっているじゃないか。愛する人が死んだら悲しいに決まっているじゃないか。「ところが、このような逃げ場すら、とかく、せきとめられがちなので、わたしたちは救われるあてもなく、いつまでも悲惨きわまる苦境に沈淪しているのだ。」ショーペンハウアーの言う通りである。