太宰治の『正義と微笑』を読んだ。16 歳でよくあれほど書くことができると思った。作者が兄から読んでもらった教えが素晴らしかった。
ゆうべ兄さんから、マタイ六章の十六節以下を読んでもらった。それは、重大な思想であった。僕は自分の現在の未熟が恥ずかしくて、頬が赤くなった。忘れぬように、その教えをここに大きく書き写して置こう。
「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容をするな。彼らは断食することを人に顕さんとて、その顔色を害うなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報いを得たり。なんじは断食するとき、頭に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在す汝の父にあらわれん為なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。」
太宰治『正義と微笑』 青空文庫 発売日:2012/9/27 Kindle版 ASIN:B009IY5V5I
本のタイトルは、この教えをもとにした作者のモットーから来ていると思われる。
微笑もて正義を為せ!
太宰治『正義と微笑』 青空文庫 発売日:2012/9/27 Kindle版 ASIN:B009IY5V5I
酒飲みになってしまった兄が心配だった。いつも弟に優しく、父親代わりに弟を励まし導き、そして寄り添っていた。弟はそんな兄を信頼し尊敬していた。兄と弟のやり取りは温かかった。だから酒飲みになったときは心配だった。
作者は立派な人格者を目指していた。だから苦悩や孤独を抱えた。偽善や俗物を嫌った。世間的な立場や地位を嫌い、尊厳を持って対等に扱う大人を尊敬した。
作者の家出の描写が好きだ。家出は一大決心だが、世の中はいつもと同じだ。
二日の朝、未明に起きて、トランクに身のまわりのものをつめ、こっそり家を抜け出した。
・・・(中略)・・・
横浜。なぜ横浜までの切符を買ったのか。僕にもうまく説明がつかない。とにかくそこへ行くと、いい運が待っているような気がした。けれども何も無かった。
太宰治『正義と微笑』 青空文庫 発売日:2012/9/27 Kindle版 ASIN:B009IY5V5I
鷗座の試験翌日の朝の描写はとても好きだ。鷗座の試験までの 1 週間、落ち着かなくて何も手につかず、試験に失敗したら死なねばならぬと考えるほどだったのに、試験翌日、起きたら気持ちが一変していた。作者の気持ちを自分が体験しているかのようで、引き込まれた。
けさ眼が覚めて、何もかも、まるでもう、変ってしまっているのに気がついた。きのう迄の興奮がすっかり覚めているのだ。
・・・(中略)・・・
永い、悲しい夢から覚めて、けさは、ただ、眼をぱちくりさせて矢鱈に首をかしげている。僕は、けさから、ただの人間になってしまった。
・・・(中略)・・・
僕のけさの気持は、そんなものではなかった。むなしいのだ。すべてが、どうでもいいのだ。
太宰治『正義と微笑』 青空文庫 発売日:2012/9/27 Kindle版 ASIN:B009IY5V5I