『存在と時間』の序論

 最初のうちは真剣に読んでいたが、現存在の歴史性のあたりから読むのが辛くなった。そのあたりから流し読みした。まだ訳者の解説は読み途中。

 印象に残ったのは次の部分:

現存在の存在は、その意味を時間性のうちにみいだす。

・・・(中略)・・・

現存在は、明示的であるかどうかは別として、つねにみずからの過去を存在しているのである。

ハイデガー存在と時間』p.94-p.96 訳者:中山元 光文社 2015年9月20日 初版第一刷

 過去によってその人がどういう人か理解する場面は多い。例えば、面接では履歴書で過去を伝える。でも面接での議論の中心は単に能力や行動様式であり、存在とは違う。

 ではハイデガーが言おうとしたことは何だったのか。これに対して訳者はわかりやすく解説している。

わたしたちが使うコンピュータのような道具にも長い前史があり、人類の長い伝統の蓄積が初めてこうした道具を可能にしたのである。こうした過去なしでは、わたしたちはわたしたちであることができないのである。

ハイデガー存在と時間』p.350 訳者:中山元 光文社 2015年9月20日 初版第一刷

 この解説を読むと、「過去を存在している」という意味の半分がわかる。私たちの存在に必要なものは過去である。「伝統の蓄積」によって私たちは今ここにいる。

 また、次の解説によってもう半分の意味がわかる。

・・・(中略)・・・わたしたちが未来においてどのように行動するかということも、この過去によって規定されているのである。

 というのは、わたしたちはこれからどのようなことをしようとか、明日は図書館に行こうとか、来週は旅行にでかけようとか計画するとしても、これらのすべてのことは伝統のうちでしか可能にならないことだからである。図書館に赴く手段も、旅行計画も、過去において可能であったことに基づいてしか可能とならないのであり、わたしたちの計画は、こうした過去の伝統の継承のうちで初めて可能となる。

ハイデガー存在と時間』p.350-p.351 訳者:中山元 光文社 2015年9月20日 初版第一刷

 過去によって未来を生きることが可能になる。過去によって未来が規定されるというのは面白い。