『読書について』で好きなところ

 ショーペンハウアーの『読書について』は面白い。痛烈な批判が爽快だ。ときどき言い過ぎではないかと感じる部分もある。次の部分は特に好きだ。

 

凡庸な物書きはみな、持ち前のありのままの文体を偽装しようとする。そのためにまず素朴さを断念せざるをえず、天衣無縫であることは卓越した精神の持ち主、自分というものを自覚し、確信をもってふるまう人物の特権になる。詳しく言うと、凡庸な脳みその持ち主は、考えたことをそのまま書く決心がつかない。そんなことをしたら、パッとしない代物になるだろうと、うすうす感づいているからだ。

・・・(中略)・・・

実際よりも深く考えたかのように見せようと懸命だ。したがってかれらは言うべきことを、不自然でややこしい言い回しや新たな造語を用い、堂々巡りをして、何を考えているのか覆い隠す複雑な構造の回りくどい文章にする。

・・・(中略)・・・

 かれらは自分が考えたことに表面的に手を入れて、博学だ、深淵だという名声を手にしたいのだ。読み手がいま見て取ったことよりも、ずっと多くのものが背後に隠されていると思われたいのだ。

ショーペンハウアー『読書について』 訳者:鈴木芳子 光文社 2013/5/20 Kindle

 

 私もそうだった。今もそうかもしれない。かっこいい造語を導入して議論を展開していくと、何だか知的で考える価値のある内容に見えてくる。しかしそれは生産的でない。生産的でないことは別に悪いことではない。読者を引きつけようという目的で文体を偽装していることが問題だ。

 この文章を読んでから、飾らない意見や経験はとても貴重で尊重すべきものだという認識がこれまで以上に強くなった。