静寂

 彼は何をするのでもなく、一人ぽつんと自宅の部屋にいた。部屋は静かだった。世間と隔絶された空間が心地よかった。妻子を除いて誰と関わるのも億劫だった。

 

 全身に力が入らなかった。もはや世間に立ち向かうだけの力は残されていないように感じられた。

 

 しかし、まったく病気ではなかった。食欲はあるし、よく眠ることができる。掃除や洗濯など身の回りのこともいつも通りこなすことができるし、仕事になれば頭も冴える。美しい自然に触れれば美しいと感じる。妻子を心から愛しており、ときおり思い出すと笑みさえこぼれる。体は健康で精神はすこぶる元気だった。

 

 だから彼にはとても不思議だった。なぜみんな普通に生活しているのだろう。何が生きる原動力になっているのだろう。彼には喜びも楽しさも空虚であり、苦しみだけが心の底から実感できた。それ以外の幸福な感情は、一瞬感じても、それで胸を満たすことはできずにふっと霧消してしまい、気づけばすぐにまたこういった感情に支配されるのだった。

 

 何か自分には欠けているのだろうかと、彼は思った。そんなことはなく、もしかしたら他の人々も同じように感じており、そのように感じていても同じように生きているのだろうか。そうだとしたらなぜ年老いていくのだろうか。彼は老人になった自分の姿を想像することができなかった。ただぼんやりと、悲しいのでもなく、絶望するのでもなく、近く訪れる別れになんとなく思いを巡らせていた。