『車輪の下で』を読んで気に入ったところのメモ

 ヘッセの『車輪の下で』は核心をつく表現が多いと思う。気に入ったところをメモしておく。

 

彼の鈍重な頭の中には、多くの偏狭で平凡な人々が持つ理想が漠然と生まれていた。自分という幹から一本の枝が自分を越えて高みに伸びてゆくのを見るという理想である。

ヘッセ『車輪の下で』p.83 訳者:松永美穂 光文社 2014年11月25日 第6刷発行

 自分の子どもにこのような理想を押し付けてはいけない。たぶん無意識に支配しているとか従って当然とか思ってしまうのだろう。あるいは立派な人になってほしいというわが子への願いが空回りしているのだろう。

 なかなかこの状態に自分では気づけないから厄介だ。

 

人間は一人一人なんと違う事だろう、そして育つ環境や境遇もなんとさまざまなことだろう!政府は自らが保護する学生たちのそうした違いを公平かつ徹底的に、一種の精神的なユニフォームやお仕着せによって平均化してしまうのである。

ヘッセ『車輪の下で』p.90-p.91 訳者:松永美穂 光文社 2014年11月25日 第6刷発行

 これは政府だけでなく社会全体にこのような雰囲気を感じている。従順で管理しやすい人は社会にとって最も有用なのだろう。

 

ハンスは座して、誰かが迎えに来てくれるのを待っていた。自分よりも強くて大胆な誰かが、自分を引っさらい、無理やり幸せにしてくれるのを。

ヘッセ『車輪の下で』p.113 訳者:松永美穂 光文社 2014年11月25日 第6刷発行

 子どもらしい。親がそういう存在だったからかもしれない。大人になるとそういうことはなくなる。

 

誰でも知っていることだが、ハイルナーは実にわずかしか勉強しなかった。それでもたくさんのことを知っており、いい答えを出すすべを心得ており、しかしまだそうした知識を軽蔑してもいるのだった。

ヘッセ『車輪の下で』p.117 訳者:松永美穂 光文社 2014年11月25日 第6刷発行

 ハイルナーのような人は少し知識を取り込んだだけで、そこから広がったりそれを補完したりする概念や思想が自分の中から湧き出してくるのだろう。勉強で得られる知識をハイルナーが軽蔑するのは、ショーペンハウアーの『読書について』で述べられていることが理由ではないかと思う。

自分の頭で考える思索家は、真剣で、直接的で根源的なものを取り扱うという特徴があり、自分の考えや表現をすべてみずから検証してゆく。これに対して博覧強記の愛書家は、なにもかも二番煎じで、使い古された概念、古物商で買い集めたがらくたにすぎず、複製品をまた複製したかのように、どんよりと色あせている。型どおりの陳腐な言い回しや、はやりの流行語から成る彼の文体は、他国の硬貨ばかり流通している小国を思わせる。すなわち自分のあたまではなにも造り出せないのだ。

ショーペンハウアー『読書について』 訳者:鈴木芳子 光文社 2013/5/20 Kindle

 

 最後にハンスと校長先生のやり取り。足りないところ、努力。こういう支配的でいうことを聞かせようとする人。息が詰まりそうだった。

「それではまったく理解できないね、若い友よ。何か足りないことがあるはずなんだがね。きちんと努力することを約束してくれるかね?」

 ハンスは自分の手を、権力者が差し伸べた右手の上においた。校長はきまじめな穏やかさでハンスを見つめていた。

「よろしい、それでいいよ、きみ。手を抜いちゃいかんよ、さもないと車輪の下敷きになってしまうからね」

ヘッセ『車輪の下で』p.159 訳者:松永美穂 光文社 2014年11月25日 第6刷発行