不毛2

 全身の力を振り絞り、妻の実家に行ってきた。

 

 家に入ると妻は泣いていた。事故にあったのではないか、アパートで首を吊っているのではないかと心配していた。そんなわけない、大丈夫だよと返した。

 

 子どもを車に乗せ、3人で日用品を買い、家に戻った。義母が帰ってきていた。ぞっとする思いを振り払い挨拶した。笑顔を作ることはできなかったが、予定通り声をワントーン上げた挨拶を披露した。誰にとっても気持ちが悪い挨拶を。

 

 義母は困っているように見えた。罪悪感が胸に広がった。

 

 ―ごめんなさい、あなた方は何も悪くないのです。私がおかしいのです。

 

 心の中でそう呟き、再び逃げるように家を後にした。

不毛

 妻の実家に行きたくない。今日は約束していたのに。生後1か月の子どもがいるのに。妻にラインも返していない。義両親に会いたくない。非常に無駄なやり取りが多いからだ。

 

 まず挨拶。無駄。いや、これは無駄じゃないか。むしろ必要だ。必須である。自分がまともな普通の人間ですということを表現できる。にっこり目を合わせて、ワントーン声を高くするだけで。これさえあればよい。他に何もいらない。もう挨拶以外しなくてよいのではないか。

 

 だが変に気を遣ってしまうのである。結局、会えば馬鹿馬鹿しい世間話をするのである。それが面倒くさい。本当に馬鹿らしい。

 

 想像すると心が重くなる。すべてのやる気が失われる。急に息が苦しくなった感覚に陥る。全身から力が抜ける。

 

 それでも、会えば必死になってあれこれ考えて会話を続ける努力をする。会話中、ただただ不毛過ぎて呆れ返っている。

 

 すべては関係を良好に保つためだ。

 

 これがすべてである。このために必死の虚しい努力をしているのである。

 

 何のために?

 

 嫌われたくないから?

 

 私は、他人に嫌われたくない。

 

 しかしこの場合、嫌われたほうが楽になる。嫌われてしまえば、「私のような者の顔を見せるのが申し訳ないから」という会わなくてよい理由ができる。

 

 では改めて、何のために?

 

 わからない。関係を良好に保たねばならぬ理由が31歳の脳みそではわからない。たぶん私がおかしい。大多数の夫は理解していると思う。もうすでに私が異常であることは義両親にも伝わっているだろう。

 

 人の異常さは行動によって明らかになる。いくら誤魔化し取り繕っても行動に現れる。

 

 今日は実家に行く約束をしていたのに。普段掃除しない場所も丁寧に掃除をした。後は家を出る以外にやることがなくなった。とりあえず家を出てカフェに寄ろうか。まずはラインを返さなければ。元気な様子で。やっと会えるという喜びを隠しきれない様子で。

 

「今から向かいます!」

社会

 最終出社を終え、有給消化に入った。妻と生後1か月の子どもがいるが、逃げるように妻の実家を後にした身としては、彼らに会わせる顔が無い。義務感はあったが、ただただ鬱陶しいばかりで向き合う気力も起きなかった。

 

 社会の義務や常識に従うことが馬鹿らしくなってきた。

 

 当然淘汰されるだろう。一人で狩りをし、寒さをしのぎ、病気を治すことなどできないのだから。

 

 社会の外に出たら、罪を犯すことのできない人間は野垂れ死ぬ。罪を犯す勇気があれば、制約は受けるが、雨風をしのぐ場所を与えられ、決まった時間に食事を与えられ、病気になれば看病してもらえる。罪を犯した人間は罰を受けることで社会に守られる。罪を犯すことは社会に従わないことではない。

 

 罪を犯すこともできず、社会に従うこともできない人間は死ぬ以外にない。

退職

 今日は最終出社日だった。朝、早く起きた。珍しく早く起きた。

 

 シャワーを浴び、朝食を食べ、少し早いが家を出た。

 

 コインパーキングに車を停めた。霧雨が降っていた。傘をさしながら、まだ開いていない会社の横を通り過ぎ、駅に向かった。駅の中にある喫茶店に入った。

 

 コーヒーを頼んだ。レジに並んでいるとき、懐かしい思いがした。

 

 コーヒーはいい香りだった。熱くて飲めなかったので小説を読み始めた。それは妻から夫に宛てた手紙だった。妻が夫に別れを告げる手紙だった。いつの間にかコーヒーは冷めていた。

 

 会社に到着し、夜になり、仕事を終えた。帰りは雨がひどくなっていた。

『父』を読んだ

 太宰治の『父』を読んだ。気持ちが軽くなる作品だった。晴れ晴れとした気持ちになり、やる気が湧いてくる。

 

 芥川龍之介とはまた違った良さがある。芥川龍之介は知的で自分に厳しい印象を受ける。上品で物静かであり、しかし気取っている感じを受けない。

 太宰治は野生の印象を受ける。桜のような儚い美しさも感じる。

 

 二人は真逆の印象を受ける。しかし甘美な哀しさは共通している。そこに惹かれる。

限界

 朝起きると、彼は家を飛び出した。逃げるように妻の実家を飛び出した。

 

 彼にはもはや限界だった。非常に居心地が悪くなった。そして、ついに逃げるように妻の実家を飛び出したのだった。

 

 彼は平日は仕事をし、休日は生まれて間もない子のために妻の実家に通っていた。妻の実家には、彼女の両親と生まれたばかりの子どもの 4 人が生活をしていた。彼らにとって初めての子どもだったため、彼も彼の妻も、わからないなりに子育てに奮闘していた。子どもはとても可愛く、心から愛していた。

 

 しかし、次第に彼は追い詰められていった。妻や彼女の両親はそのことに気づかなかった。何が彼を追い詰めたのか。それは彼自身の性格だった。

 

 彼は自分に対する自信の無さから、対人関係において自ら壁を作ることがほとんどだった。壁が無いのは妻くらいであった。いや、妻とも初めは壁があったが、結婚して毎日一緒に過ごすうちに壁が無くなっていった。

 

 その壁は、自らをよく見せようとする壁であった。虚栄心から壁を作っていた。自分に自信が無いために、よく見せなければという努力が異常だった。だからいつまでも打ち解けることができなかった。いつまでたっても他人とのかかわり方がよそよそしかった。そのよそよそしい様子は、真面目な印象を与えることだけは成功していた。

 

 自分で壁を作り、自分を追い込んでいった。追い込まれても、ボロが出る恐怖、本当の自分を知られてしまうのではないかという恐怖のために、壁を作ることがやめられなかった。

 

 そして、その日の朝、限界を迎えたのであった。

 

 彼の妻や彼女の両親には突然の出来事であった。何が起こったかわからなかった。いつものよそよそしい態度で一言二言口にした後、急に家を出ていってしまった。

 「信じられない」

 妻は子どもを抱きながら目に涙を浮かべ、急いで立ち去ろうとする彼に向かって言った。

 「ごめんね」

 一言だけ残し、彼は玄関を閉めた。

感動

 一体、感動はどこへ行ってしまったのか。

 

 彼と彼の妻は旅行中だった。彼は必死で歩き回って探した。妻がついていくことができない速さで歩いた。何かにとりつかれたように無我夢中だった。彼の妻は、気遣わない彼に怒りをぶつけた。

 

 彼は弁解の余地もなく、理由も添えず謝るばかりだった。旅行中の風景に感動しない、それはつまらないことを表明するようなものだった。

 

 その直後は歩幅を合わせて歩くのだが、しばらくするとまた距離はひらいた。たとえ距離が近くとも、一生懸命歩く妻を気遣わない心の距離だってあるだろうに。

 

 あの階段を登って夜の街を見下ろしたら。あの崖から岩に打ち寄せる波を見たら。水平線に沈む夕日を見たら。

 

 そんな期待が彼を焦らせた。この旅行を美しくしなければならない。

 

 しかし空っぽだった。どんな風景も彼には響かなかった。もっと妻に優しくすればよかったという後悔だけが残った。帰ってから妻の楽しそうに写真を飾る様子を見て、安心とより強い後悔が押し寄せた。その安心にも、彼は罪の意識を感じた。

 

 妻が不憫でならなかった。彼は、自分のような者に不憫だと思われることも、また不憫でならなかった。